前回の ~その1「写真の加工と編集」についての考え~ では、写真の加工や編集をアリかナシの両極端で考える必要はなく人それぞれだし、写真の現像についての話から個人的には編集や加工は問題ないと思っている。しかし、違和感を感じるのはどうしてか?過度な加工ややり過ぎが本当に原因ではない気がする …というような話をしました。詳しくは前回の記事をご覧になってください。
→ その1「写真の加工と編集」についての考え
今回はその「違和感」の正体について探ってみようと思います。
【1、日常に存在する矛盾と違和感】
《こんな違和感を感じたことはありませんか?》
テレビを見ているとニュース番組のキャスターになぜアイドルと女性モデル?、ビジネス向けの硬いイメージの製品やサービスのCMや製品PRに女性アイドルの起用、オーガニック野菜が売りのレストランが化学調味料をたくさん使っている、コンビニなのにまるで百貨店かのような必要以上の丁寧で時間をかけた接客… など、このようなものに違和感を感じたことはありませんか?なんか違う… ハッキリとわからないけれど何かが違う。そんな感じ。
実はこれはどれも一貫性や整合性がバラバラなものだと思うんです。マーケティングに詳しい人ならコンセプトの一貫性はとても大事なことだと知っている人がいるかもしれませんが、それと同じで矛盾してると思います。
例えば、先ほどのビジネス向けの製品やサービスのCMや製品PRであれば若い女性アイドルではなく、キャリアウーマンを連想させる女性やスーツが似合う仕事のできるような雰囲気の俳優さんだったら違和感がなくないですか?そこに知名度だけでアイドルなんかを起用すれば目立つかもしれないけれど、同時に矛盾や違和感を感じますよね?
では写真はどうでしょう?
【2、写真の整合性や一貫性】
《写真の場合の整合性や一貫性とは何か?》
矛盾や違和感を感じる整合性や一貫性の取れてないもの。写真でも同じようなことが言えるんじゃないかと思います。
例えば、かっこいいモデルさんのお洒落なポートレートを撮ればもちろん現像もかっこよくフォトジェニックに仕上げたいとなるだろうし、むしろそのほうがそのモデルさんに合っていると思う。メイクをバッチリしてレザーのジャケットにヒールを履いて海外のファッションショーを歩くようなモデルさんだとすれば、編集もそれなりにアートのような表現をすると思う。
逆に、田舎のおばあちゃんの作業風景などを撮影するとしたら、先ほどとは違って現像でモデルさんのような編集や加工はしないと思う。同じような編集したら変ですよね?イメージと合ってない。
サイバーで近未来的な工場夜景を現像するとしたら、きっとそれなりの編集や加工をすると思う。そのほうがより近未来的なイメージや煙の立ち込める幻想的ななかにあるメタリックな質感なども表現できると思う。
でも、それと同じような編集や加工を山岳写真ですれば違和感を感じませんか?
このように、写真でも整合性や一貫性が撮れてないものには矛盾や違和感を感じることがあると思います。
《素材、そして撮影、さらに現像、という整合性と一貫性》
撮影する対象物はその時点ではまだ素材です。それを撮影して現像することで写真となる。しかし、素材には最初からもっているメッセージ性やイメージがあると思います。
海外のファンションショーにでるようなモデルであれば、クールさやカッコよさ、美しさ、そのブランドや服のイメージ。田舎のおばあちゃんであれば自然な雰囲気だったり優しさや暖かさ、工場夜景だったら人工物らしさやメカメカしさ、山岳写真であれば自然の壮大さや山の厳しさ。
そのメッセージを撮影者がくみ取って撮影し現像するわけで、そこから先は現像する人の表現や感性にゆだねられることになるのだが、素材から発せられるメッセージやイメージなどと明らかに方向性が違う場合、矛盾や違和感を感じることが多いと思う。
表現は自由でいいわけだし、表現の仕方によってはたとえ方向が違っても素材の新しい見方や価値を見出すことができる場合もあるが、そこに整合性や一貫性がない場合やそれが欠けている場合に矛盾や違和感を感じるのだと個人てきには思う。
《整合性や一貫性にとらわれない斬新な表現もある …がしかし…》
こういった矛盾には世間一般の認識だったり常識だったりいろんなものが絡んでいると感じていて、アートなどにおいてその一般論や世間的な考えに基づいたものばかりでは斬新なものは生まれないという意見もある。確かにそうだと思う。人と同じようなことをしてれば同じようなものしか生まれない。自分なりの独自の視点や表現や考え方は個性を出すことにおいて必要だと思う。
しかし、本当の斬新で奇抜な表現は素材をさらに生かしプラスに反映される。多くの場合は整合性や一貫性のとれないものは矛盾や違和感としてあらわれるのだと思う。
特に写真というものはゼロから何かを生み出すというよりは、撮影対象となる素材がそこにある。その素材を活かすも殺すもカメラマンや現像次第ということになる。そこで素材のイメージやメッセージ性を無視することは矛盾や違和感を感じさせると思うし、それを無視した「個性」という名の加工や編集はただの自分を正当化するだけの理由にしかならないと思ったりします。
料理でいえば、それは調理前の野菜や肉や食物といった素材であり、それを調理するのも盛り付けるのも料理人の仕事です。そこに最高のマツタケがあったとしたらその香りや味を引き立てて調理してほしいと思う。スパイスたっぷりのカレーに入れてマツタケかエリンギかわからない料理にはしてほしくない(おいしいかもしれないが笑)。そのままだとドロ臭いウナギがあればそれをそのまま焼いて食べるよりも、その臭みを抜いたり感じさせないように加工したり調理したりして欲しいと思う。かば焼きなどがそれだ。
そこに斬新で見たこともないような調理法や味付けがあったとして、それが素材をよりおいしく食べられるのであれば、それは個性としてプラスに働いていると思うし素材を活かしていると思う。逆に個性と謳った奇抜なだけの料理はただの一瞬の注目を集めるだけに過ぎないと思う。
【3、整合性や一貫性のない写真の違和感の正体】
つまり、写真の加工や編集にも整合性や一貫性が必要だと感じていて、それがないものに違和感を感じるのではないだろうかと思う。
当初感じていた、「やり過ぎ」が原因ではない。もちろんその過度な加工や編集が整合性や一貫性を乱しているのなら要因の1つになるとは思うが、根本的な違和感の正体は整合性や一貫性の欠落ではないかと考えています。
では、これらを踏まえたうえで山岳写真や風景写真を加工編集するときにどのようにしていけばいいのだろうか?あくまで自分の考えなので1つの意見でしかないがそこら辺を次回に最後のまとめとしたいと思う。
コメント
この記事へのコメントはありません。
この記事へのトラックバックはありません。